北京で見た物乞い

先日北京に遊びに行ったときのこと。

前門の地下鉄駅入り口辺りの雑踏に一人の物乞いが座っていた。物乞いはよく見かける。老若男女、健常者、身障者。駅前で、歩道橋の上で、地下道で、地下鉄の中で。歌を歌って、楽器を弾いて、じっとうずくまって、地面に文字を書いて、地面を這って。しかし、この上半身裸の男性の姿には本当にショックを受けた。彼には両腕が無く、そして顔に、上半身一面に赤いケロイド状の傷跡がある。髪は生えていない。腋下部分は手術のためか、両胸の辺りに縫いこまれ、そこから黒い体毛がまばらに生えているのが見える。
行きかう人々はぎょっとして目をそむける。直視してはいけないような、いやあまりにむごくて直視できないほどその姿は悲惨だった。
座っている彼の前には数枚の写真が置いてある。若いカップルの幸せそうな結婚写真、聡明そうな青年の大学卒業の記念写真など。それは過去の彼の写真だ。そして彼の生い立ちを説明する文章「・・・爆発事故にあって今の姿になり・・・・」。

その後、私は道端に置かれているコップに数元を入れたのだけれど、私は彼に出会う前にもその繁華街で何人も物乞いをする人に出会っているのに、彼だけにお金を渡すのは見かけの姿の酷さに対して私がお金を払っているということだろうか。目の見えない老人が地下道で胡弓を弾いていたし、両足の踝から下が無くてその傷口も酷く腫れている女の子は荷車の上に寝かされていた。
彼の過去の写真と目の前の現在の姿を見くらべて彼の人生を、他の物乞いの人よりも余計に具体的に想像したからだろろうか。これが「見世物小屋」の中であれば、私の気分の悪さ(あえてこう書くが、それは同情、無力感、恐怖、共感、哀れみ、その他様々な感情)はより少ないはずだ。それが彼らの仕事だと割り切り、私はそれに対して好奇心を持って自分で入場料を支払って見る。そこでもいろんなな感情が発生するだろうがそれでも、そういうお金を媒介にした見る者と見せる者という割り切った関係として自分の中で整理される。

でも、街を歩いていて突然飛び込んでくる彼らの姿は私を本当にいたたまれなくさせる。こちらの準備ができていようといまいと、望もうと望むまいと見せられる。そして自分の無力さや生きることの辛さ、病気、死、もしも私だったら、家族だったら、と考えることを突きつけられる。(ああ、例えば何かお祭りなどのイベントがあるときに野宿者の姿を隠したいのは、公園を歩く人々がそうやって楽しい気分を害する(!)ことを先回りして防ぐためなのかな。時間の無いときは、その自分の中に発生した気持ちをゆっくり解きほぐして考える暇が無い。ただ不快、苦痛としてしかのこらないし。)


取り上げられてる根本の問題と今日書いたことはそんなに関係はないんだけれども、
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061007/1160198141
上のブログで知った状況と、この方のコメントを読んで北京の彼の姿と自分の感情をちょっと考えた。

彼が事故にあった体をあえて公衆にさらし、それで日々の糧を得ていること。そうしてしか生きていけないことがいたたまれない。北京の彼があの場所に一人でセッティングをすることはできないだろう。おそらく誰かが手伝っているのだろう。もしかしたら写真の人物と彼は違う人かもしれない。それを知ったら私はだまされたと思うんだろうか。