前の前の日曜日。タータンちゃんと秋葉原を歩く。マニアックな空気がけっこう好きなので、もしかしたらこれではまって足しげく通うことになるのでは?と一部期待もしていたのに、意外なほど興味を惹かれず。こんなもんかー。なぜだろう。その後、大阪から来た趙さんのコンサートを聞きに行き、懇親会にも参加していい気分。

 この前の土曜日。10年ぶりくらいに会う友達等と北千住に飲みに行き、数年ぶりに記憶を無くす。三件目までは覚えているのだけど…。次の日二日酔いでぶっ倒れている間に秋葉原での事件が発生しており、遠くの友達を心配させることになった。
それにしても、北千住の飲み屋街の雰囲気がもう本当に素晴らしい。東京、いいじゃないか!もう一度リベンジして今度はゆっくりと味わいたい。

 さっき。前に買って読んでなかった大村はまの『教えるということ』をトイレに置いて時々読んでいるのだけど、開くたびに「大村先生、それよ、それなのよ〜」と身につまされる部分がある。さっきくらった箇所をメモ。今日は小学生がほとんどのクラスでの授業があって、彼女等はちょっとしたことで楽しげに笑うけど、実際に力がついているわけではないことも見ていてよくわかる。そんな中に一人いる成人男子の学生は時折退屈そう。どうしたもんかねぇ。

『教室はとにかく、一段一段と力がついていくのでないと、教室といわないのではないかと私は思います。他の生活のどの場所にも、そういう場所はありません。楽しく暮らす場所はいくらでも有りますけれども、グングンと学力が着いていく場所、それを専門に目指している場所が、教室なのです。いかに楽しくてもそういう姿が見られないのは、教室ではない。あるときはもう、辛くって力の限り、ギリギリのところでやっている、力の伸びるのは、そういうギリギリまでやっているときと私は思います。

 少し力の弱い子供をその状態に持ってくることは、そう難しくないと思います。力のある子供を、その姿にさせるには、指導者にそれだけの実力がいります。その子の優れた力を、はるかに上回る、ゆたかさ、幅の広さ、高さが無ければ、彼を夢中にさせることは難しいと思います。

 (略)単元学習が成功しなくなるときは、その楽しそうにしているときの子供を読む、教師の読み取りの甘さにあります。皆が楽しそうにしているところで、安心するといいますか、指導者がホッとしてしますわけです。そこで腰を下ろしてしまわずに手を出します。よくやれましたというところに、とどまらないで、よくやれていたら、「では、こういうことは」ということがだされ無ければならない。それが教室の魅力を生むと思うのです。子供が一人でいては、そこまでで安心するところでした。けれども、自分の知らなかった世界、やってみたらやれたという、もう一つの世界があった。そこへもっていくのが教室だと思うのです。』