後輩が亡くなったとの連絡。貧血で駅のホームでふらついたところに電車が入ってきたそのだそうだ。静かに熱い情熱を燃やす人でした。訃報はいつもこうやって突然生活に飛び込んでくる。普段はその人のことなんかまったく考えていないのに、もう居ないのだと思うと胸が塞がれる。その人の映っている写真を見ながらここに映っているこの瞬間のこの人はまさか半年後に自分が存在しなくなっているなどとは微塵も想像していないんだと思い、切なく、そしてこんなにも死と隣り合わせにある生を思いだす。自分のすぐ後にもある死。若い人が亡くなるというのはつらい。ご家族の悲しみ幾許か。目にするテレビ、ニュース、雑誌などで笑う全ての人が悲しむということを知らない人間に思えてしまう。普段は連絡を取っていなかった人だったので、彼女が日頃何を感じ何を求めていたのか、そんな彼女個人を知ることはほとんど無かったのだけれど、こうのようにもうどうやっても彼女に働きかけることが出来ない状況になってしまうと、自分の役に立たなさ、無力さがとてもむなしい。彼女に近い人ほどその思いは強く、もしもあのとき・・・と、悔いるのだろう。普段は死を忘れて生きている私は。生でなければ死なのだ。既にあちらに居る祖父母や動物によくよく頼み、私もそのうちにいきますと手を合わせた。
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何かをしていると忘れている。ふと思い出してもう居ないんだと確認するときの喪失感がたまらない。