ルート181』鑑賞。http://palestine-forum.org/route181/
普段見ることの無い、そこに住む一般の人々の生の姿と言葉に触れて印象的な映画だったのですが、同時にこの映画を見ていた日、大阪城公園うつぼ公園で野宿者のテント強制撤去に対する支援活動が行なわれていることを思っていました。お金を払ってパレスチナドキュメンタリー映画を時々居眠りしながら(だって長いんだもん!)見ているのに、知り合いから手伝い要請のある、自分のすぐ近くの出来事に対して行動を起こしていない、起こさない自分のことを考えました。もしも、この野宿者の人々に対する今回の行政代執行の様子がドキュメンタリー映画になり、映画館で上映されるとしたら、私は見に行くでしょう。そしてありきたりな感想を述べ、友達に薦めるでしょう。見守ることと自分が主体的に関わることの間には大きな距離があるようです。関わることは責任が伴うからでしょうか。私は自分のせいにされるのが重い、怖いのでしょうか。でも、既にストーリーの、結末の用意されたものを見ることと、現在進行形の場のごく一部に立ち会うことは両立できるのです。自分の責任を自分でしょいながら軽やかに生きたいです。しかし今のところその姿には程遠く、責任を負う場面を意図的に避けているように思います。わたしは。自分の希望を口に出すことからそのための準備の何かが始まるような気がします。