ねこちゃんをいじめないで。

14日深夜。ふらりと部屋を訪れたきのこさんと話をしていた。こういうことが出来るから寮生活はイーネ!(イーネ!といえば、先日府立図書館行ったときAVコーナーでクレイジーケンバンドのCDを見つけたんですが、なんと野坂昭如がゲストで歌っている。黒の舟歌とか歌ってるんである。なんてタイミング!と迷わず借りて帰って聞いたんですが、まぁこんなもんなんかなぁと。ライブ音源だからか、ケンさんもなんか声が細いし。)いろんな話をする中で、看護士という職業は人間が怪我をしたり病気になったりして本当に他人の助けが必要なときに助ける職業だから、非常に原始的な「生」への欲求という部分から必要とされるし役に立つ仕事だと思う。どんな偉い人も賢い人でも金持ちも、そうで無い人も、病気になるし、怪我するし、そうなったらどんな仕事だって出来ないんだし。という話になる(彼女は看護士)。
その流れから、もしも人間達が皆どこかを病んで、痛みを抱えて生きていれば(精神的苦痛とかではなく現実的な肉体の痛み)、世の中はずいぶん違ったものになっているんだろうねという話になる。自分の痛みで精一杯で他人をどうこうしてやろうと考える暇は無いのではないか?と。そこで彼女は言う。「でもそうなると、ある程度以上の痛みじゃないと痛みと認められなくなるかもね。ちょっとした痛みでは痛みを感じなくなるかもよ。」こういう彼女の言葉を聞いたときは、「そうかなぁ?他人がみんな痛がってるからって自分自身の肉体の痛みという現象はなくならないでしょう?その身体的現象を「痛み」と呼ぶか呼ばないかというだけの話で。」とか言ったんだが、後で考えてみると、もしも自分が生まれてから「あるレベル以上の苦痛しか痛みとして認められない世界」で生きていたら、自分がもしもそのレベル以下の「痛み」を持っていても、それは自分自身にも「痛み」という言葉の表す現象としては認識されないということになる。「痛み」ではないがしかし確実に自分の肉体にある言葉にならない苦痛となる。
でも、ものすごく個人的な体験である肉体の苦痛に対してその「あるレベルの苦痛」という線引きができるかどうか。というか、そもそもする必要があるのか。だれがするのか。何の為に。する人も痛いのに。
って、考えたときに、今日S先生の授業にもぐって聞いた話とちょっと被った。「恣意的に作られた規範によって縛られている」ってやつ。聞いた話と重ねて考えると、痛みのレベルがバラバラであるってことは、病人や怪我人がバラバラってことは、病気や怪我で仕事ができないってことは、生産性が高くない、もしくは無いってことか。でも、それで誰が困るんだろうか。本人以外に。家族?もっと大きなレベルの共同体?
あぁでも、「痛み」ってのはもっと生理的な現象なのだろうなぁ。それが言葉にされているか、名前があるかどうかなんかには関係なく、身体的な反応。ほれ、脊髄反射とか。「イタッ!」ってやつ。でも、じーっくり、じんわり痛いのはどうかなぁ。よくわかんなくなってきたなぁ。
とりあえず、ちびっこちゃんは辞めたければいつでも辞めることが出来るし、それでかまわないと私は思う。ということピョンピョンピョン。