寝相

たどたどしい日本語で、少し自信無げに、ゆっくりと、つっかえながら一生懸命に話をしている人が、突然母語でぺらぺらぺらと流暢に高度な内容の話を始めると、わかっていてもいつも少し驚く。前の瞬間とは別人のような印象を受けるので。その人に対する自分の中の意識も変わってしまう。その人がつたない日本語を使っていたときは、ハンディキャップを持つ人に接するような意識だったのが、何語であっても流暢に話し始めたとたんに一人前の大人と接しているという敬意を持つようになる気がする。
相手の使用している言語の内容が自分にわからなくても「流暢な話し方」に触れるだけでとりあえず対等な意識を持つような気がする。自分の使いなれた(自分の使用方法が絶対に正しいと信じている)言葉を相手も話していて、その使い方が明らかに間違っている(普通ではない)とわかっている場合、相手に対して優位な意識を持つ?(言葉だけを見た場合。そのほかの非言語的技術がすぐれているという場合は除いて。)サッカーの監督なんかが日本語を喋らないのは、そういう選手に対する精神的な優位性を保つ効果ってのもあるんだろう。TBSの「ブロードキャスター」でビルトッテン氏に対する周りの人の冷ややかな態度は氏の話す内容よりも日本語力に原因がある。(中島らもの文章から受ける印象と語りから受ける印象のギャップも)そうだ、昔、H先生の講義で植民地支配の話を聞いたときに、植民地の人々の本国で使われている言葉が正しく使えていないという劣等感を支配に利用したという話を聞いたな。