緑郎さんの野菜

結局パソコンからの不可解な音はファンの故障でした。壊れて修理。やっと手元に戻って来た。金のかかる子。しかし、突然自分のパソコンが知らない人々の手に渡るのは不安というか、落ち着かなさを感じる。怪しいものが入っているわけでもないし、紛失してとっても困るデータが入っているわけでもないのだけど、なんだろ、日記とか写真とかがあるから。ワープロソフトで『見た聞いた感じたこと』というわかりやすいタイトルのメモを保存しているのだけど、それがそのまま他人に渡されるんだもの。やだ〜ん。
思ったことを書いておくのには三種類くらいあって、まずここの日記。これも匿名で自分向けに書いているにしろ、とりあえず誰かが見るかもしれないことが前提。人々の行きかう道路の脇で呟いている感じ。もう一つはノートにペンで手書きするもので、これは本当にそれを書いている時の気持ちの勢いで書きなぐるので、冷静になってから読むと恥ずかしくて言い訳を書き足したり、破ってしまうこともしばしば。絵が書いてあったり、間違いも塗りつぶして修正。自分ひとりの部屋で裸で踊ったり酔ったり泣いたりしてる感じ。そしてもう一つがさっき書いたワープロソフトで保存しているやつ。これは思い付きをメモしたり、その時の気持ちをちょっと書いておくもので、ノートに書いているのとここに書いている物の中間くらいの生々しさ。寮の中で仲のいい人達とお茶を飲んで話をしてるくらい。で、こういうことを考えていて思い出したのが少し前に学校で夏目漱石など作家の生原稿の展示があって見に行った時のことなんだけど、とても惹かれたのがそれらにある推敲の跡だった。様々な修正を入れられている原稿用紙が持つ生っぽい感じが、活字となった本のページとは別物のよう。書いた人間の存在がとても近くに感じるというか、修正、変更をする人間臭さ。手書きをしなくなったらこういう楽しさが無くなるのかもねぇ、なんて思ったりしました。ネットでもわざとわざわざこうやって修正跡をつけたりするもんね。でも、この場合の修正跡は、また違う意味を持つなぁ。わかってやってますよって感じ?

父上が野菜をたっぷり送ってくれた。ありがとう!海の上の人だったから、試行錯誤しながら野菜を作っています。「畑は半分ずつ休ませながらつくらんといけん、トマトの芽は摘まんといけん」などと60歳の息子が百歳の母に叱られつつ。