お山で語る

2日〜4日まで、二泊三日で箕面の山にこもり、「東アジア(日本・中国・韓国・朝鮮)」について考えるというキャンプに参加しました。スタッフとしての参加だったので、終わった後はこの2、3年で一番の疲労感。ぐったり。実は2日目くらいからすでに笑顔と交流しようという気力は消えていました…。ただ役割をこなすのみ。帰って布団に倒れこむと、横たわる自分の体が重くて重くて、引力が1.5倍くらいになったよう。布団に張り付く体。二日間くらい復活できませんでしたが、いい経験でした。
まず、平均年齢20歳くらいの学生さん達の頼もしさよ。みんなしっかりしてるんだわ。わざわざこんなイベントに参加しようという人たちだから、問題意識が高くてそれぞれでもいろんな活動をしているのですが(フェアトレード、市議会に立候補、フリースクール等々)、そんな人たちが真剣に討論したり、笑いあったりしてるのを見ながら、次の世代が育ってきてるなぁ…としみじみ。
在日朝鮮籍の若い人と直接話ができたのもよかった。本やら講演やら映画やら、そんなのじゃなく直接。しかもこういう場だから遠慮なく質問もできる。思春期のアイデンティティの揺らぎの話、いろいろ勉強するまでは朝鮮が大嫌いだったという朝鮮観、朝鮮の庶民の生活の話、などなどいろいろと教えてもらえてよかった。しかも話してくれたのが若くて素敵な好青年で(笑)、余計に聞き入ってしまいました。そういう俗な欲望は何にも勝りますな。私の場合。
あと、スタッフで参加したというのも面白かったところ。準備から当日の動きから、大変でしたがその分いろいろ見ることができました。適材適所、リーダーはどっしりと、会計&記録は切れよく、お笑い芸人は盛り上げ、食事係は癒し系、歌姫やお洒落君もなくてはならない存在でした。特にきのこさんの素晴しさはしっかり見ました。私は彼女を尊敬します!火の回りで河内音頭も踊ったよ〜!!
関連してると思った文章をこちらからhttp://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060808引用。

ワークショップに関係した人間関係というのは、その「場」の力、あるいは中間集団の力に由来するものであって、ぼく個人が人と関わりを作り維持していく力に変化が生じたわけではない。親しい人間関係が、それを作る能力や熱意とともに、ほとんど「絶無」に近いという状態を、今も自分は生きている。

ぼくがずっと行っているワークショップの場合、何度も言うように、これは「中間集団」のようなものとして存在しているのである。だから、この集団のなかに入れば、そのなかでの人間関係はある程度保障される。
もちろん、その弊害も考えられるが、外側の社会がこれだけ個人の生活(関係作り)に対して過酷になってくると、一種の避難所としての、こうした集団の役割は、これからより重要なものになってこざるをえないだろう。
だがそれが、個人が社会のなかで生きていく力に、どれだけ作用し関係しうるかは、別の問題である。

「避難所としての集団」なるほどよくわかる。そして避難所の中での孤独…か。孤独の原因をうまくコミュニケーションできない自分に求めてしまうんですね。自己嫌悪気味のその感情もよくわかる。それぞれの人が、ほんの少しだけ多めに他人に働きかければいい。人からのアクション、受け止める自分、相手へのアクション、受け止められる自分、の繰り返し。それが避難所内での自信になり、そのうち自分への自信になる…はず。