朝からずっと雨が降っているので、ベランダにおびき寄せている雀は羽が濡れていつもよりスリム。雨が降ると、というか湿度が高いと外の空気が海のにおい。こんな住宅地の真ん中なのに海のにおい。堺が港町だったことを思い出すとき。そして私はまた今日も朝からカレーを作っています。一昨日のカレーはその日の内にみんなで食べつくしてしまったので。当番の回ってきたトイレ掃除をしながらグツグツ煮込むカレー。ゴシゴシグツグツゴシゴシ。




「失敗したって良いだって。あたしってお茶目〜っ、こんな私って可愛い〜って笑ってればいいって。自分を肯定することが、自分を好きになることがまず大事。」
先日帰省したとき、取り留めなくその日の出来事を話しているようなとき、母は何気なくそう言った。

誰でも人は生活しながらいろんなことを吸収して、いろんなものを手放して、刻々と変化していく。
それは自分自身を考えてみれば良い。10年前の私と今の私は同じか?色々受け入れ、色々手放しているのがわかるだろう。
そのあたりまえのことを、自分の人格や価値観を形成するのに大きな影響を受けた人物に対しては、特に親に対しては忘れそうになる。いつまでも揺らがない存在であり続けるような気がしている。でも、母も一人の人間として変化し続けている。

「自分を肯定する大切さ」なんてもうどこでもしょっちゅう耳にするし、言われ過ぎて手垢のついた感もあるのだけれども、でも、母から聞いたのは初めてではなかったか?

もちろん私や弟妹が落ち込んだときにかけてくれる励ましの言葉や、母の友人に対しての勇気付け、アドバイス、などは常に相手の存在を認め肯定する暖かい言葉だった。
でも、相手を肯定するのではなく、母自身をも含めた自分への許し、自己肯定の言葉を私が聞いたのは初めてだったと思う。だからこうしてなんだか聞き流せずに耳に残っている。

おそらく、今の私の「こうするのがあたりまえ」という普段は意識もしていない規範的価値観の基礎の基礎の部分の形成に最も大きな影響を与えているのは母だろう。(個人的嗜好は父に似ているような・・・(笑)家にいなかったのになぜかしら〜?)

その母が母自身を許す言葉を、まとまったフレーズで客観的に述べているのを聞いて、なぜか私も楽になったような気がした。

それは昔の『何かが出来ない私を見て周囲に対して恥ずかしがる母とそれを感じて気まずい私』が今までどこかに引っ掛かっていたのだけれど、(例えば、泳げない子供を集めたスイミング教室で私一人だけ潜ることさえ怖くて泣きだしてしまったため、仕方なく母は他の親達がプールサイドから見おろす中、大人の中では母一人だけプールに入って私を慰めていた。後で「恥ずかしかったわ〜。」と言われ反省する私。)
今回、母が母自身も含めてこういう自己肯定的な価値観を持つ必要について語ったので、私の中で「恥ずかしい母と気まずい私」が二人まとめて「一人だけ潜れない私っておちゃめ〜(娘)。自分の娘だけ泣いてて一人だけプールに入っている私もあり〜(母)。あははは。」と、一緒に笑えるようになった(私の気持ちの中でそう整理がついた)ということ。

ふむ。そうして考えてみると、「みんな違ってみんないい」やら「世界に一つだけの花」やらのもう何百回も聞いて、ケ〜ッぺらぺらだぜ、って思ってた考え方が、いろんな講演やら、講座やらから吸収した母を通して、初めて私に少〜しだけ(←負け惜しみ)影響を及ぼしている。
・・・ということを、きのこさんと話しながら考えたのでメモ。