今日から近くの市民センターで民謡を習い始めました。今日の課題曲は嬉しいことに鳥取民謡『貝殻節』。正式には私の地元の曲ではないけれどもやっぱりちょっと嬉しい。三味線の音が、というか何らかの楽器の音が無機質な会議室に響き渡ると本当にワクワクします。厳しい顔をしてちっとも笑顔の見えない女先生の美声が伸びやかに響きわたり、歌い終わった先生がかすかに微笑んでいるのを見聞きしながら「唄っていいなぁ」と浸るひととき。自分自身も気がつかないうちに、時代を超え場所を越えてその他の人々と共有してしまっている唄達は、それぞれの個人的思い出を包摂したまま我々を繋ぎます。唄の持つ、言語を使わずとも瞬間的に快感を伴って繋がることが出来る機能、それの中にはまったときの気持ちよさ。犬達の遠吠え、猿達の鳴き交わしと同じ原始的な快楽が伴っているのかもしれません。
昔、こんなことがありました。友達と道を歩いていて図らずも喧嘩をしてしまったときのこと。二人で気まずく黙って歩いていたのですが、そのうち友達が歌を歌いだして、私も好きな歌だし黙っているのも嫌だったので一緒に歌いだし、二人で歌ううちになんとなくその場は仲直り。でもその喧嘩の根本的原因は解決されてないので結局後でまた同じように気まずくなるんです。これを唄での「その場しのぎのごまかし」と捉えてしまうか、それとも好意的に「対話の繋ぎ直し」と捉えるか・・・。去年ゼミで「パッチギ!」を見たときにある学生から出た、「『イムジン河』の歌でごまかされてる」という意見は、前者のように結局向き合わなければいけない問題をごまかしているだけだと捉えた意見でした。歌を歌っても結局問題は解決はされていないではないか!と。その場の気分の高揚でなんとなく解決したような気分に浸っているだけではないか!と。そうです。唄って解決することは所詮無いのです。でも、関係を繋ぎなおし、繋ぎなおし、しながら進んでいくためにはとても効果的であるとも思うのです。自分が強く意識することなく、自分の中にいつの間にか埋められた唄(細見先生の言葉を借りれば「種」)たちは、そんな人々を繋ぎなおす為の「種」でもあるのです。
地元の盆踊り曲『出雲音頭』(「ヤンハトナー」とも呼ばれています。)を盆踊りのときに歌うのが夢で目標です。来週は沖縄まで沖縄民謡の「新人賞」の試験のため出かけます。曲は『祝い節』。学校休んで行っちゃいま〜す。うへへへ。
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今日は「サラリーマンNEO」の日ですよ。