油は石油か。

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]今日は佐世保チビコちゃんのお誕生日。おめでとう!
卒論のめどがついたみかん娘がウキウキと部屋にやってきたので、きのこさんも交えてのんびりお茶会。その後ふかしたさつま芋をもぐもぐやりながらみかん娘所有のDVD『千と千尋の神隠し』の深夜鑑賞会に突入しました。久しぶりに見た「千と…」です。この映画は面白くって映画館で2回見ましたが、油屋の雑然とした夜の活気と周りの町の雰囲気、風呂のからくりなシステムのお湯の出しかたなどにとても魅かれます。(目黒雅叙園熱が再び!!http://www.megurogajoen.co.jp/index2.html)だからそれらが描かれている前半部分の印象がとても強くて、後半の優等生っぽくなってしまった千尋や唐突にまとめに入るよう場面展開が好きではなかったのです。でも今回三人で色々と感想を口に出して突っ込みを入れながら見ていたら、後半部分に今まで感じなかった魅力を感じました。みかん娘が最初の部分で「カオナシは欲の塊なのですよ。そしてカオナシは目的を持って働いている千を自分の物にしたいのですよ。」とか「ゼニーバは自分の手で物を作る生活をしているのです。」などと解説をしてくれたので(彼女はこれを20回くらい見ているのだそう)「消費社会への批判…」という漠然としたイメージを持ちながら映画を眺めることになりました。
中盤、ユバーバに突然双子の姉が出現して、おいおいおい、となるんですが、あれは後で姉の方(ゼニーバ)が言っているように元は二人が仲良く一緒にいたのです。手作りと魔法(機械化)が二つで一つだった時代。それはまだ電車が二つの間を繋ぎ人々も行き来していた時代。釜ジイが引き出しの奥から取り出したのは四十年前の、そしてそれ以降は使われることなく忘れられていた切符でした。そして釜ジイは「最近は電車が行きっぱなしで帰りの電車が無い」とも言います。この40年前というのを日本社会にあてはめるならば1960年代、高度経済成長期の初期。この頃から二箇所(社長が社員を雇用し技術を駆使した会社ではたらく世界、と個人が手作りでものを作る世界)の行き来は難しくなってしまったということなのでしょう。そう考えると「行きはいいけど帰りがなぁ。」と、心配する釜ジイに千尋が力強く答えた「大丈夫、歩いて帰るから。」このセリフも非常に意味深いものに思えます。千尋は未来を見つめ、自分の足で歩くゆっくりとした速度でも二つの世界を繋ごうという意思があります。
でも、です。もしも油屋側が「石油で発展する機械的、資本的、消費的な社会のイメージ」だと考えると、ちょっと疑問がわきます。電車は油屋側から「沼の底駅」側に向かって行きっぱなしなのです。もしもこの「いきっぱなし」という言葉に消費社会への批判が込められていると考えるならば反対方向、油屋側に行きっぱなしで帰らないから心配だという設定の方が素直に受け入れられるのでは。「手作りの社会から消費社会に行きっぱなしで心配だ。」これならばわかりやすいですが、実際には方向が反対です。そこで思い出したいのは、ゼニーバが言った「私達は二人で一人なのに…。」というセリフ。これは片方(銭側)が時間と共に姿を変えてもう一方(油側)になったということではなく、同じ時に共存しているものが現在は隔たっているという意味です。だから、沼の底駅方面が過去で油屋側が未来であり、千尋が過去にさかのぼるというとらえかたではなく、本来共存していたものの関係を再度繋げるというイメージで捉える方が良いのではないかと思います。「機械化、会社勤め」と「手作り、個人、倹約」、といったイメージは実はうまく融合して共存することができる。ゆっくりとで良いからそのような社会に再びしよう。そう言いたいのではないでしょうか。
そして、六番目の駅は「沼の底」という名前ですが、あれは六十年前の戦後すぐの時代の象徴でしょうか。