読み終えるのが惜しい。

定延利之著『よくわかる言語学』。言語学のやさしい入門書なんだけれども、これが面白い。著者が、専門用語を初心者にイメージで理解させようとあれこれ試行錯誤している姿勢が伝わってくる。例えば第六節「行く」と「来る」の説明は、こんな感じ。

やしきたかじんという歌手は、購入する住宅物件を見もしないで決めたことがあるそうです。こういう人が現実にいてくれると、説明が楽になり実に助かります。やしきたかじんストックホルムにある一軒のレストランを、見もしないで衝動的に買ったとします。買った後も全然行かないとします。するとしばらくして、「たかじんが買うたレストランちゅうのんは、ここか?」などと言いながら桂ざこばがそのレストランを訪れたとします。レストランのスタッフは、このことを国際電話でやしきたかじんに伝えます。電話を受けたやしきたかじんは後日、第三者に、「ストックホルムにある僕のレストランに、先週ざこばさんが来てくれたみたいなんです」などと言うことが出来ますよね。つまり自分自身そのレストランを見たことが無いし、行ったこともないとしても、所有するレストラン(縄張り)への桂ざこばの接近行動は「来る」で表すことができます。

問題も載っているんだけれど、それもこんな感じ。

問題:「田中さんが小松さんに本をくれました」と言えるのは、どんな状況ですか。

解説:例えば、社内の隠し芸大会に備えて、私は小松さんと漫才コンビを結成しました。私のボケは最高なのですが、小松さんのツッコミが今ひとつで、何とかしたいと2人で悩んでいたところ、ちょうど私が出張中のことでしたが、「ツッコミの実力アップは、やっぱりこの本だろ?」と、一年先輩の田中さんが小松さんに本をくれました。いや、よかったよかった。

問題:イスを舞台に「上げる」のではなく「上がらせる」にはどうすればいいですか。

解説:例えば、朝になると窓から光が差し込んでくる。その光が凸レンズを通して集まって紙を焼く。紙が焼けたために、紙からぶらさがっていた重りが外れて下に落ちる。その力で滑車が回り、・・・・。最終的にロープが巻き上げられ、ロープの端にくくりつけられたイスが舞台に上がる、という壮大な装置を作ればいいでしょう。

ずっとこの調子で進んでいく。もちろん、こういう具体的例の後に、きちんと文法的な説明がなされるんだけど、頭の中でイメージをしているから文法用語もスルスルと入ってくる。なんと愉快な。以前この著者(神戸大学の先生)の講義を履修したことがあって、顔を知っているというのも親しみの持てる原因だし、何より「いやぁ、ホント面白いよねぇ言語学って。」という本人が楽しんでいる雰囲気が伝わってきて、読む方がつられてしまう。最初に読むにはもってこいの一冊ですね。
かと思えば別のある日本語学の入門書には「はしがき」にこう書いてある。

教養科目は複雑で高度な専門的内容を、単に「うすめた」ものであってはならないはずである。かといって、いわゆる「面白いお話」の散漫な羅列であってもならない。もとより、おもしろい話をすることと、おもしろく話すことは苦手である。というより、大学の講義の評価基準に「おもしろさ」は無縁であると思っている。

こういうことは書く必要はあるのか?確かに入門書にしては硬いイメージだけどそれはそれでいいのに。この本はおもしろくないですが、それはわかってますから。わざとですから。ってこと?
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う〜ん、例えばこの上の文。こういうことをこういう日記に書く必要はあるんか?自分。これはとってもいいので他の人にも見て欲しい!と褒めるのは良いよ。でも、自分の嫌味な感想をわざわざ書く必要はないんじゃないか・・・とも思う。その批判が何かを生み出すような、ものならともかく、書名も著者名も明らかにせず、その内容の感想ですらないちっぽけな、書いても誰も得をしない感想。しかも匿名で。こんなのはノートに書いていれば良いんじゃない?近くの友達に話してれば良いじゃない?
本からの引用ってどのくらいの分量までならOKなんだろうか?